Generation

photo by pixabey

『メインストリームは次世代へ引き継がれた』


社会人になって数年も経つと、例えば高校野球のような学生スポーツを目にした時に「昔は年上の人達だったのに、いつの間にか年下の人達になってしまったな」と思うことがある。

冒頭の言葉のように言えば、多少は格好よく聞こえるかもしれない。

要するに、自分が年を取ったな、と感じる瞬間である。

街角で見かけたバイトの募集要項に「年齢:30歳まで」と書かれていたとする。

その職場で働きたいとか思っていなくても、そもそもそこで働くことはできないのだと気付く。

知らず知らずのうちに人生の選択肢が一つ消えているのだ。

20代の頃までは年齢を重ねることによって、できるようになることが増えていくような感覚があった。選択肢は追加されて、まるで自分の可能性が広がるような、その感覚が。

それがいつの間にか選択肢が消えることに気付く方が増えていった。

中高生の頃なら参加することができた学生スポーツにも、今となっては参加することは叶わない。

少しずつ消えていく選択肢に、目の前に広がる道がただ先細っていくかのような不安感を募らせながら、今進んでいる道をただ無心で進んでいくしかない。

次第に無力感に包まれるような気分になる。

不安と悲壮を携えたまま、目の前の道を進んでいても面白くはない。

眼前の道を迷いなく進んでいる人を羨むだけで何もしないくらいなら、書店に平積みされている啓発本を手に取ってみる方がまだ良い気がする。啓発本を読むだけでは誘導されているようで好みではないけれど。

道が先細っていくような感覚に襲われたとしても、道そのものが無くなったわけではない。そして、一本道になったわけでもなく脇道もまだまだある。

不安と悲壮が脇道を見えにくくしてしまっているだけなのだ。

メインストリームは本当に引き継いで手放してしまったのだろうか。

例えば学生スポーツにコーチやスタッフの立場で携わることはどうだろうか。観客として彼らの健闘を観戦することはどうだろうか。プレイヤーの立場ではなかったとしても、まだそこに道は続いているのではないだろうか。

私が30代を迎える頃には、10代や20代の頃にはなかった多少の金銭的余裕もできた。

ライブハウスへ足を運んで様々な音楽表現に触れることも、フォトスタジオへ足を運んでモデルさんとアート表現(これは大袈裟な言い回しだが)をすることも、若い頃には頻繁にできなかっただろう。

きちんと周りに目を配ればまだ脇道はたくさんある。

かつて通らなかった(或いは通った)道を進むのは次の世代に任せて、自分はまた通ったことがない道を進めばいい。時には脇道を見つけて寄り道をしてみるのもいいだろう。

ニュースで同じ年齢のプロスポーツ選手が引退を表明した。

その選手が同世代の中では最後の選手だったらしい。

それを知った時に、ふとそんなことを考えた。

※2016年4月投稿の文章を改訂して投稿


<Source of Photo :  https://pixabay.com/
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