Depression / 心が色を失っていった話
ラジオから音楽が流れる。
混濁した意識が、今が朝であることに気付かせる。
DJが何かを話している。その声は記憶に留まることなく耳を通り過ぎていく。
身体は動かない。
暖かい布団が優しく身体を包み込んでいるから、ではない。
まるで布団の下に強大な磁石があって僅かな砂鉄が引き寄せられて剝がされなくなってしまったように、バトル漫画のワンシーンで重力を強くされてペッタンコにされてしまったキャラクターのように、何か強い力で下の方向へ引き寄せられている。
動けない身体を、動かさないといけない。
強い、それはとても強い重力のような、拘束された身体の中に何処か動く箇所がないかを探す。
脳と切り離されてしまった肉体に再接続して、何処かにエラーがないかチェックするかのように、身体のあちこちへと意識を巡らせる。
しばらくして、いや、それまでにどれぐらいの時間を要したのか、本当に”しばらく”と表現して適切な時間だったのかどうかすら分からないけれど、とにかくしばらくしてようやく右腕だけが動くことに気付く。
右腕しか接続できなかったのか、それとも右腕だけ早くエラーチェックが終わっただけなのか、右腕以外の身体はまだ動きそうな様子を見せない。
それでも、動くのであれば、動かなければいけない。
手を伸ばして、巨大な磁石が発する磁場から逃れようと、床を掴んで這って進もうとする。
引き寄せられ続ける自分の身体は、片腕だけで引っ張って進むにはあまりに重い。
牛歩と喩えるには牛に失礼なほどにゆっくりと、本当にゆっくりと、僅かずつ進んでいく。
右腕に入れた力を抜いてしまえば、また引き寄せられて振り出しへと戻ってしまうのではないか。そんな不安、或いは恐怖が頭を掠めながら、緊張した腕をまた少し前へと伸ばす。
必死に進んだその先に、伸ばした手に何かが触れる。
それは細いコードであった。
天から垂らされた蜘蛛の糸を掴んで自らを血の沼から引き出すかの人のように、コードを掴み引っ張ろうとする。
沼から現れた多数の亡者達が私と同じようにそのコードを掴んで、引っ張って、それはぷつりと切れてしまった。なんて仏様が失望してしまうようなことはなく、コードは手繰り寄せられ、その先に繋がっていたスマートフォンが手元にやってくる。
そのスマートフォンを使って助けを求めれば、その先には『今』とは異なる未来があったのかもしれない。
助けを求めた先にあった未来を選んでおけば良かったのかもしれない、と『今』の私なら考える。
だけど『あの時』の私は、その未来を選ぶことはなかった。
もっと正確に言えば、そんな選択肢が其処にあるなんて考えてもいなかった。
『あの時』の私は、唯一動く右腕を使ってスマートフォンを操作して、1件のメッセージをチャットへ送った。
おつかれさまです。本日の業務を始めます。
送信完了のメッセージが表示されることを確認すると、私の意識は途絶えた。
桜が紅く咲くころのこと
COVID-19。
新型コロナウィルスとも呼ばれていたそれが、この文章を読んでいる今よりも未知な存在であり、不確定な存在であり、不安を扇動する存在であり、脅威そのものであった頃。可能な限り他人との接触を避けるように、外へ出ないようにと推奨されていた頃。
新型コロナウィルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言の発令に伴い、私も例外なくオフィスへの出社を制限されるようになった。そして、自宅でのリモートワークを行うようになっていた。
自宅でのリモートワークなので当然通勤する必要はない。それまで通勤に要していた時間はそのまま毎朝の余裕となる。
通勤時間の代わりに浮いた時間を運動などの朝活に費やすようになった同僚もいたが、そんな意識を備えていなかった私は浮いた通勤時間を不足気味な睡眠時間へそのまま補填していた。そして仕事がある日の朝の慌ただしさは、緊急事態宣言が発令される前と大して変わることはなかった。
◇
当時、新型コロナウィルスによる集団感染、つまりクラスターの発生は多くの人が意識して注意することであった。一度クラスターが発生すると、何処で何人が感染したかといった詳細な情報は直ちに公開されていた。
関西地方においてクラスターの発生が最初に報じられたのは、とあるライブハウスだった。
ステージで演奏される音楽が外部へ極力漏れないように設計された密閉した空間。その音楽を楽しみに集まる観客。ライブハウスの構造などによって多少の違いはあれど、基本的には密室内に大勢の人間達が集まることを想定された場である。
2時間程度の公演で観客の中に感染者が一人いるとしたら、他の観客にも感染するリスクが高いというのは想像に難くない。
そのライブハウスでのクラスターの発生が報じられると、瞬く間にライブハウスは”感染リスクの高い場所”として周知されるようになり、各地のライブハウスで予定されていた公演は一斉に中止・延期となっていった。
経営上の理由などから中止にすることなく公演を続けるライブハウスもごく一部にはあったが、クラスターの発生を招く営業行為として非難の的として取り上げられることとなった。
次第にライブハウスの存在自体が不要不急という言葉の下、望まれない存在のように扱われるようになっていった。
そして、そのような世論の変化は、ライブハウスへ行って音楽を楽しむことを趣味としている私へも影響を及ぼすことなった。
国内での感染者の発生が報じられた頃には「数日前に行ったTHE YELLOW MONKEYの大阪ドーム公演が中止にならなくて良かったなぁ」などと呑気なことを考えていたものだったが、ライブハウスのクラスター発生が報道されるようになると、ライブ趣味が職場でも認知されていた私は「ライブへ行かないように」と注意喚起を受けるようになり、新型コロナウィルスの影響を実感するようになっていった。
注意した人達としては、私自身が感染しないようにと心配する意図もあったかもしれないし、私が感染することによって社内に感染者が広がらないようにしたいという意図もあったかもしれないし、社内でクラスターが発生することで会社そのものが望ましくない形で報じられるのを避けたいという意図もあったかもしれない。
しかし、ライブなどの多くの人が集まるようなイベントが軒並み中止・延期となっており、そもそもライブを観ようにもイベント自体が無い状況だったので、行くなと言われても行きようがないというのが個人的な感覚であった。
勿論、何としてでもライブハウスで音楽を聴きたいと思って探せば行くこと自体はできただろうが、そこまでして行きたいというほどの強い思いがあるわけでもなかったので、「今のコロナによる状況が落ち着くまではしばらくライブへ行くこともないのだろうなぁ」と既に半ば諦めたような気持ちだった。
そのような感じでライブハウスへしばらく行けないこと自体は納得していた。けれども、周囲から「行くな」「行くな」と何度も言われてしまうと、つい反発感を抱いてしまうことは少なからずあった。
ライブハウスへ行くなと注意してくる人達の真意が何であったにせよ、本来制限されるようなものではなかった業務時間外の活動に対して制限を受けることに、幾許かの不満と窮屈さを感じていた。
◇
世間が緊急事態だと大騒ぎして数々のイベントが消えてしまったとしても、今目の前にある仕事も消えてしまうようなことはなかった。
それまでオフィスに出勤して自分のデスクで行っていた仕事は、その中身をほぼ変えることなく、自宅でテーブルに向って行う仕事へと変わっていった。元々リモートワークをすることがあったので、オフィスから自宅への環境の変化に適応するのにそれほど苦労がなかったのはよかったと言えるかもしれない。
当時の私は、新規案件の計画・立案を担当していた。
案件の詳細は伏せるが、社内でも前例のないタイプの案件でどうやって進めていこうかと担当者間であれやこれやと議論するのが主な仕事であった。そういった点でも職場がオフィスから自宅へと移っても、会議が対面からディスプレイ越しへと変わっただけで、環境の変化に伴う手間は少なかったと言えるだろう。
ただ、新型コロナウィルスによる緊急事態宣言という前例のない状況下において、この前例のない案件がどう決着するのか全く読めない、まさに五里霧中とはこのことだという不安感が常に付きまとう状態であった。
そうやって変化を急遽強いられた自宅での生活の日々を過ごしていった。
空が青く澄むころのこと
仕事には一般的に繁忙期と閑散期という波がある(ことが多い)。
システムエンジニア(SE)と呼ばれる、極めて曖昧で抽象的な職業に従事している私にとってもそれは同様である。
期末や年度末といった決算期に大量の仕事が波のように押し寄せてくるような種類の仕事ではあまりなく、どちらかというと時季とは無関係にやってくることの方が多い。「システムを設計して開発してテストしてリリースする」という大きな予定があって、多くの場合はその終盤が近づくにつれて繁忙期という波がやってくることが多いように思う。
同業者や同業他社の状況は伝聞でしか知ることはないのだけど、たぶんそれがよくある流れなのだろう。
外野からはそういった仕事の波を窺い知ることは難しいようで、まるで波というよりは津波のようにずっと高い水位に押し流されているようにしか見えないこともあるらしい。
”過労死”が社会問題として取り上げられて”ブラック企業”という言葉が周知されるようになった昨今は、一昔前の環境と比べればそれは随分と改善されたものではあるが、異業種の人達と互いの労務環境について語り合うと十中八九「それはブラックだ」と言われてしまう程度には、相対的には忙しい職種なのであろう。
そんなシステムエンジニアの状況はさておいて、この頃の私は閑散期から繁忙期への過渡期と言うか、次第に迫ってくる大きな波の存在を感じながら、日々の仕事をこなしていっていた。
◇
まだ世間を騒がし続けていた新型コロナウィルスにも波はあった。
新規感染者の発生数も減少傾向が見られるようになり緊急事態宣言が解除されたかと思えば、また新規感染者の増加が見られるようになっていた。『第2波』と呼ばれていた頃であった。
そのような状況下において勿論ライブハウスが営業を再開することもなく、すっかり音楽は配信で聞く生活となっていた。
そんな私にはライブ鑑賞と並ぶもう一つの趣味があった。
それは写真撮影、特にモデルを被写体としたポートレート撮影である。
世の中にはカメラを趣味としていても被写体となってくれるような知人・友人がいないような人達は私以外もたくさんいるようで、そのようなカメラ趣味の人達を顧客としてポートレート撮影の被写体や場所をセッティングして提供する撮影会ビジネスというものがある。
ひょんなことからカメラ撮影を始めた私もそんな撮影会ビジネスの恩恵に授かり、コロナ禍以前より趣味の活動場所をライブハウスとは別に撮影会にも作るようになっていた。
ライブハウスのような大勢の人が集まって成り立つようなイベントではないにしても、ポートレート撮影も一人では出来ない活動である。一人だとただの自撮りにしかならない。つまり、被写体と撮影者の少なくとも二人以上の人間が対面して成立する趣味活動である。
この頃は”Zoom飲み”のようなオンラインビデオ通話による飲み会が催されるくらいに、複数人が対面して会話するということが推奨されない状況であった。撮影会の企画者が少人数とは言え被写体と撮影者を一か所に一定時間集めるというということを企画するのも難しく、多くの撮影会がライブ同様に中止となっていた。
ただ、不特定の人が集まる撮影会とは違って、ポートレート撮影自体は被写体と撮影者の最低2人がいれば成立することである。海外のロックアウトのように外出そのものが禁止されているわけでもなく、人が集まらない場所を散歩するような外出は容認されていたこともあり、面識のあるモデルさんと屋外で一対一で撮影させてもらうことはたまにあった。
撮影自体は月に一度あるかないかくらいの頻度ではあったが、当時の私にとって仕事以外で「誰かと対面する」時間を過ごせるのはこの時くらいであった。
◇
そんなイレギュラーな撮影をする時を除けば、一日のほとんどの時間を自宅内で過ごす生活が続いていた。自宅にいる時間の大半は眠っているか、仕事をしているかのどちらかであった。
そんな生活を続けている内に、自宅のリモートワークにも少しずつ慣れてきていた。
毎日のように行われるオンライン会議。
いつも顔を合わせる同僚達のモニタに映る背景も、当初は急場しのぎで用意された生活感溢れるものから、きちんとワークスペースとして整備されたものへと変わっていった。その変化からも同僚達がリモートワークへ慣れていっている様子を感じ取ることが出来た。
その変化していく様子とは対称的に、私自身のリモートワーク環境は一向に変わっていなかった。
部屋の一角に置かれたスチールラック。その一段に用意されたデスクトップパソコン用のスペースに追加されたリモートワーク環境。その環境から何も変わることがなかった。
自宅自体が手狭な環境であったし、環境を変えるための家具や機材自体が全国で急進的に導入されたリモートワークの影響で手に入りにくかったり、そもそも検討するために家具屋や家電量販店を物色しに出かけることもままならない状況下であったりして、なかなか環境を変えるまで至ることができないせいであった。
そうやって自分の中で理由を作ることで、『動かない自分』に気付くことが出来ていなかった。
気付かないふりをしていたのかもしれない。
葉が赤く色めくころのこと
ずっと取り組んでいた"新しい案件"はその姿を露わにしていた。
勿論当初から明確な姿が決まっていた案件だったわけではなく、その姿を形作るために準備を進めていたというのがこれまでの仕事であって、案件の全貌が露わになっているというのはそれだけ順調に仕事が進んできたとも言えるのかもしれない。
ただ、この時の私にとって重要だったのは、この案件の終盤であり最大の山場が年末にやってくるということであった。その山場を迎えるまでにやらないといけない、簡単には片付かない課題が山積であった。
課題が山積となることはこの案件に携わることになった1年ほど前からある程度予想は出来ていて、その不安は当初から漠然と訴えていたが、漠然とした訴えが伝わらないのが世の常である。今となっては漠然としか訴えられない自分自身の表現力の乏しさを悔いるしかない。
案件の全貌が明確になっていくにつれて、自分の中で朧げであった不安も明確な姿となって伝播していき、「何故もっと早く言わなかった」と言わんばかりに体制が強化されていき、普段姿を見ることも滅多にないような偉い人達も会議に顔を見せるようになってきていた。顔を見せるとは言っても実際に対面することはなくオンライン上で姿が見れるか、或いは声だけが聞こえるぐらいではあったけれども。
しかし、そうやって自分自身を取り巻く人達が増えていくことは、目の前にある案件の重要度が可視化されていくようで、日を重ねるごとに仕事の緊張感が増していくようであった。
◇
新型コロナウィルスによる騒乱は、一時期に比べると少し落ち着きを見せていた。
冬が近づき寒くなっていくことでまた感染が広がることを危惧する声はあり、外出するようになった人達に対して気の緩みだと警鐘を鳴らす人達も少なからずいたが、多少の外出であれば許容される雰囲気が出てきていた。
これまでほぼ開催することがなかったライブも一定の制限の下で開催されることが少しずつ出てきていた。
大勢の観客が集まることが想定される夏フェスや有名アーティストのライブなどは開催を見送るものの、入場者数を制限した形でライブハウスでの小規模なイベントや、野外会場でのイベントなどは少しずつ開催されるようになってきていた。ファンとの交流が多いアイドルイベントなどもアイドルとファンの間にビニールの幕を隔てて配置することで直接接触させないという形で交流を行うようにするなど、今できる形を模索しながらも一歩ずつ再開への道を進んでいるようであった。
また、撮影会イベントも撮影者数を従来よりも少なくするなど撮影者側の感染対策を厳しく制限することで、こちらも再開への道を少しずつ進めていた。
仕事に忙殺されるだけの生活になるとしんどくなる。これまでの社会人生活でそう実感していた私は、なるべく気分転換の時間を設けるようには心掛けていた。
ライブハウスへ行くことを制限するように言われていたのでおおっぴらに宣言することはしなかったが、密閉されたライブハウスではなく野外で行われたイベントへ足を運んでみたこともあった。
その傍らで一対一での撮影をすることもあったし、コロナ禍以前はほとんど足を運ぶこともなかったバーやコンカフェなど少人数で会話ができるようなスペースへ行くこともあった。誰かと対面して話すことが大きく制限された世の中であったからこそ、細心の注意を払いつつも「誰かと会う」ことを求めていたのだろう。
その時点では気分転換がしたいという思いでそんなことをしていたように記憶しているが、今振り返ると既にこの頃には自覚している以上に『症状』は進行していたということだろう。
◇
そんな気分転換を無自覚に求めるようになる程度には、日々の生活に疲労感を覚えるようになっていた。
朝。目が覚めてから身体を起こすまでの時間に感じる億劫さは、いつの間にか重荷へと変わっていた。
リモートワークによって得られた通勤時間分の猶予が布団の中で全て費やされるだけではなく、気付けば始業時間直前まで布団の中で動けずにいるという日も増えていった。本来昼食を取るための時間である昼休みも、布団の中へ戻って横になって過ごすなんてこともあった。
この頃には毎日リモートワークというわけではなく、仕事の都合に応じて出社する日も週に何度かあった。
そんな日はコロナ禍以前の時のように出社時間に間に合うように身体を起こし、オフィスへ出社し、以前と同じように仕事をすることができていた。
だから、リモートワークの時に起きれなかったり、休んでしまったりすることは、”体力的に”疲れが溜まっている状態によるものであり、それを人目のない環境でついサボってしまっているのだと思っていた。
『この疲労感は多忙によるもので、今の案件が年内で片付けば一旦解消されるタイミングが来るはずだ。』
『けれども仕事に忙殺されると滅入ってしまうので、休みの日は機会がある限りは趣味の活動をしなければならない。』
『そして、この疲労と気分転換は職場の上司や同僚に言うべきことではない。かえって責められるだろうから私一人で完結させないといけない。』
そう思って少しずつ疲労を”体"だけではなく"心"へも蓄積させていった。
◇
仕事上における”私”としての人格とは別に、SNS上における"りらいと"としての人格も私の中にはあった。
主にライブや撮影などの趣味活動での人格が"りらいと"に近しく、それは"私"に掛けられている制約から切り離して趣味活動をするための存在であった。
一般的に言われる二重人格ほどそれぞれ独立した人格ではないが、"りらいと"の存在が別個体として存在するが故にこれまで”私”が日々の生活で感じたストレスを容易に発散することができ、また一方で"りらいと"として行った活動が経験となって"私"自身へも多様性をもたらしてくれていた。つまり相互にプラスの影響を与え合う存在となっていた。
この二つの人格をこうやって20年近く使い分けて活動してきていた。
そして、そのことが私自身への負担を歪な形で積もらせていくことへと繋がった。
仕事上の人格である"私"と"りらいと"は切り離された人格であるため、基本的に"りらいと"は仕事の話をしない。
たまに「仕事が忙しい」的な発言はするものの、そもそも人格の切り離しとは別に仕事の詳細を社外で話すわけにはいかないので、それならば不用意なことを話してしまわないように仕事の話は避けるようにしていた。
それはTwitter(現X)のようなSNS上だけに限らず、ライブハウスや撮影などの趣味活動で出会う人達と話す時も勿論同様であった。
「仕事が忙しい」のようなボヤキや愚痴だったり、ここまで綴ってきたような(ある意味で抽象的な)話であれば、別に”りらいと”が発言しても問題ないのだが、長くSNSをやっていると具体性のないネガティブな発言を続けたところで、それを見た人から適切なアドバイスを得られることもなければ良い気分も与えない。つまり『百害あって一利なし』のようなものであって、するだけ無駄だと思うようになっていた。
だから、”りらいと”が仕事の話をすることはなかった。
百害あって一利もないのはその言葉を受け取った側の話であって、”言葉を発する側"にとっては"話すこと"そのものに意味があり、利をもたらす場合もある。そんな発想は少なくともこの時の私にはなかった。
コロナ禍で閉塞的になった環境の中で、色づいた木々から舞い散る枯葉のように疲労が積み重なっていく"私"に対して、積もった枯葉を取り払うこともせずに”りらいと"はコロナ禍以前と同じように趣味活動に興じ、そしてそこで得た経験をコロナ禍以前のようには"私"へと一切フィードバックすることができずに、日々は過ぎていった。
そして、限界は確実に近づいていった。
街が白く薄らいでいくころのこと
ずっと取り組んでいた案件は佳境を迎え、無事に一番の大きな山場の終わりを迎えた。
気が付けば年も明けていた。
正月の夜、オフィスを出て人通りの少ない静かな街を眺めて、1年以上に渡って続けてきた案件がようやく終わったのだと感慨に耽ったのを覚えている。
正確にはもう少し後片付けのような仕事が残っていたので完全に終わったというわけではなかったのだけど、残務処理に対する義務感よりも一番の大きな山場を無事に乗り越えたという達成感や解放感の方が大きかったのであった。
これでようやく一段落するのだと。
◇
しかし、そんな期待に反して、私自身の状態は好転する様子を一切見せなかった。
残務処理を片付ける傍らで撮影活動をいくつかしたり、友人達と集まってお酒を飲んだりして、山場を迎えている間しばらく控えめになっていた趣味活動や交流をいくつか続けて行ったものの、疲労感、特に起床時の束縛や重圧のような感覚が取り払われることはなかった。
これは疲労を取らないといけないと思い一人でふらっと有馬の温泉宿へ行ってみたりもした。温泉に入る前に少し観光をしようと街中を散策していたら、いつの間にか六甲山のハイキングコースを歩いており、それも途中でトレッキングシューズが必要になりそうなスマホの電波も不安定になるガチの山中に足を踏み入れかけたところで我に返って引き返す。なんてこともあった。(その後で一応温泉には入った)
一向に解き放たれる気配のない呪縛。
山場を過ぎて解かれると思っていたその呪いは、気付けば日常生活にまでその鎖を伸ばそうとしていた。
◇
後片付けに過ぎないと思っていた残務処理が、トラブルとなって火が立ち上り始めていた。
仕事をしていればトラブルなんて大なり小なり発生しうることであり、その解決への道のりは難易度の違いはあれどある程度見通しは立つものである。そう思ってこれまで長い間仕事をしてきており、実際に解決してこれまでやってきていた。
しかし、この時のトラブルは違った。原因が全く分からないのだ。
これまでもやってきたように、発生したトラブルに対していくつか考えられる原因の候補を挙げ、一つずつ可能性が高そうなものから順に対応を行っていくのだが、その対応が悉く外れていく。何をしても、何も当たらないのである。
珍しいケースのトラブルに当たってしまった。
この時はそう思っていた。けれども、今思い返すと、本当に珍しいケースだったのかどうかも怪しく感じてしまう。何故なら、この時の私がこれまでと同じように物事を考えて行動することが出来ていたのかと問われると、そうだと答えられる自信が今の私には全く無いからである。
◇
年末の山場を乗り越え、一か月ほど経った頃だろうか。
起床時の束縛感は変わることなく、日中の生活にも重く疲労を感じるようになってきていた。解消されると思っていた呪縛が解かれなかったことと、トラブルが試行錯誤しても一向に解消されないことに、絶望感にも似た感覚に襲われているような状態であった。
さすがにこれは単純な疲労などではなく何かの病気ではないかと考えるようになり始めた私は、インターネットで症状を調べ始めていた。
ただ、正直なところ、この頃の私は既に自分の病名についておおよその察しが付いていた。
この時点から数年前。その時もまたそれなりに多忙な案件に関わっていた時期があり、その時は幸いにも比較的プレッシャーを受けにくい役割であったので無事に乗り切ったのであったが、当時の関係者の多くが憔悴しきっていた。
その時に、何気なく田中圭一先生のうつヌケという一冊のマンガを読んでいた。
本書の中で、うつ状態になった田中先生自身が朝起きた時に黒い何らかの存在(=うつ)に襲われて動けなってしまうという描写がある。
『何らかの存在に全身を包まれる』
私自身が起床時に感じていた感覚は、どちらかと言えば全身にかかる重力が極端に強くなって動けなくなってしまうようなものであり、体感的には微妙に異なる感覚ではあったものの、今自分が襲われているものがそれと同じところから来ているであろうという確信があった。
一方で、自分自身がライブや写真撮影といった趣味を通じて音を聴き色を観ることが出来ているから、また仕事に対して思考して行動することが出来ているから、自分はまだそうではないと思い込んでいた。もしくは、思い込むようにしていたのかもしれない。
しかし、自分自身の現状を認めて、その原因が何であるかを直視しようとした瞬間から、自分自身がそうであると確信に至るまではそれほど多くの時間はかからなかった。
◇
誰にも相談することなく、心療内科に電話をした。
家の近くで評判の悪くなさそうな病院やクリニックをいくつか調べて初診予約を取ろうとして、予約を取るための順番待ちやら日時指定やら様々な制限があり、多くの人が診察を受けようとしているのだなと少し共感するような、予約すら取れないのではないかと少し不安になるような、いくつかの感情が沸いたのをなんとなく覚えている。
ようやくつながった予約の電話で症状を伝えると、すぐに診察日が決まった。
この日の仕事を休んだか早退したかはもうまったく覚えていないけれど、予約した心療内科へ行き、診断を受けた。
「うつ病」である、と。
診断結果を会社の上司に電話で伝えると、その電話がかかってくることを事前に予想していたかのように引き継ぎも要らないから即日休暇に入るようにと伝えられた。
これまでの人生において予定された節目で生活が切り替わることは何度となくあったけれど、それがこれほどまでに唐突に訪れることは一度もなかった。それまで日常であったはずの生活は急に一旦の終わりを告げられたのだった。
他の同僚達に何も告げることなく姿を消し、突然療養生活に入ることになった。そんな予想していたよりもずっと急激に変化する日常にそこはかとない非日常感を覚えつつも、ふっと力が抜けていくような感覚がした。
そして。
季節が移ろうたびに、見えているとずっと信じていた世界の色が、もう見えていなかったことに気付いた。
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